合成音声配布所
編ヶ瀬ユイリの災難な日常
朝10時。
ダークベージュのカーテンの隙間から漏れる光で、編ヶ瀬ユイリはようやく目を覚ました。
ぼんやりとした目でしばし虚空を見つめた後、伸びをする。
「うーん……」
この人物はかなり朝に弱い。
特に昨晩は仕事で夜遅くまで起きていたから、なおさらのことだった。
ユイリはサイドテーブルのケースから黒縁眼鏡を取り出し、掛ける。
これがないと、起きた感じがしないのだ。
その後も少しばかり無為な時間を過ごした後、ようやくベッドを降りた。
ひとまず顔を洗って、鏡を見る。
男性とも女性とも断言できない、曖昧な容姿だ。
体格を見てもいまいちはっきりしない。
だが、その容姿こそがユイリの特徴であった。
洗面台に置いていた櫛で、髪を軽く梳かす。
ユイリの髪はミルクティーベージュで、先端は桃色にも見える。
不思議な色合いだが、本人としては服装の色の好みと近いため気に入っていた。
長い髪を右肩から前に垂らすと、指で三つの束を作る。
手慣れた動作で、あっという間に三つ編みを完成させた。
この髪形だけはこだわりで、いつも同じように自分で編んでいる。
ユイリは髪形を完成させると、長い瞬きをしながらキッチンに向かう。
いつもしているように、バターを塗ったトーストを焼き始めた。
一般的に見れば少し遅い、朝食の始まりであった。
~~~
ユイリは結局、昼から仕事を始めた。
雑居ビルの2階、『編ヶ瀬探偵事務所』と書かれた小さな部屋が仕事場だ。
編ヶ瀬ユイリは、探偵であった。
調査などの依頼を受け、その依頼に全力で応じるのが務め。
ユイリは書類整理をしながら、新たな依頼人を待っていた。
今のユイリはワイシャツに黒っぽいベストを着て、いかにも真面目そうな雰囲気だ。
信頼が要の探偵業を営む上で、こういった印象構築は大切である。
ユイリは改めて、白い襟を正した。
すると、からころとドアベルが鳴り、誰かが入って来る。
「あ、あの……」
不安そうな女性に、ユイリは優しく微笑みかけた。
「初めまして。ご依頼でしょうか?」
すると女性はこくりと頷く。
「でしたら、こちらのソファーにお座りください。今、お茶をお出ししますね」
ユイリはいつものように案内をすると、電気ポットの方に向かう。
「好きなお茶などございますか? 緑茶は一般的なものだけでなく、りんごやぶどうの香りのものも。紅茶はダージリン、アールグレイ、チョコレートのフレーバーがありますよ」
この探偵事務所では、最初にお茶を用意することにしている。
一息つけば、相談もスムーズにできるからだ。
「ええと、その、じゃあ、りんごの緑茶で」
女性は戸惑いながらも、リクエストをしてくれた。
「はい。承知しました」
このやりとりが、信頼への一歩だ。
ユイリはそう信じていた。
~~~
依頼内容は、事前にメールで聞いていた通りだった。
交際相手と真剣な結婚を考えているので、その相手の身辺調査をしてほしいとのことだ。
夜に不審な外出が多いため、他の相手がいるのではと疑っているようだった。
彼の名前や写真、住所に勤務先を聞いたら、その夜早速調査を開始した。
最近助手として雇い入れた新人の青年と、勤務先周辺で待ち伏せをする。
ユイリは路肩に停めた地味な黒い普通自動車の中、カーステレオのラジオをぼんやり聞いていた。
内容はお便りを踏まえた雑談に終始しており、いかにもラジオらしい番組といったところだ。
『「――お二人の小さな秘密を教えてください!」とのことです。あるんですか、秘密――』
秘密、か。
ユイリはその言葉に思考を広げる。
探偵とは、人の秘密を探る仕事ともいえる。
それが本人にとってどれだけ隠したい事実でも、依頼に妥当性があれば探るのだ。
その結果、幸せを掴んだ人もいれば、幸せを逃した人もいる。
その先の人生を大きく変えてしまうような証拠であっても、契約通りに見つけ出すのが探偵だ。
ユイリにも、知られたくない秘密がある。
知られてしまったら、驚かれたり、引かれたり。
場合によっては、その町にいられなくなることだってある。
知らない方が丸く収まることだってたくさんあると、この身で知っている。
それでも、真実を追うことで誰かの不幸を防げるのなら――。
「先生、来ました! タクシーに乗るようです」
助手の声に、意識を引き戻される。
「ああ、本当だね。慎重に後をつけよう」
ユイリはそう言って、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
~~~
タクシーは、少し離れた繁華街のそばで停まった。
ここからは足での尾行になる。
ユイリと助手はいかにも一般人という服装にマスクをして、雑踏に紛れた。
交際相手の男はまっすぐどこかへ向かっているようだ。
誰かと約束でもしているのだろうかと思っていると、ふいに路地裏へと入っていく。
古い飲み屋の看板を抜け、ひと気のない暗い方へ。
そして、そこで女性と落ち合ったようだ。
ユイリは写真を一枚撮り、様子を見る。
「あなたがマリさん? 今日はよろしくお願いします」
「うん、よろしく。ハルオさん」
どうやら初対面らしい二人だが、事前に何か約束をしていたようだ。
交わす言葉も少なに、付近の廃ビルに入った。
もちろん、ここでもシャッターチャンスは逃さない。
この後もさらに重要な証拠を抑えられそうだ。
見つからないよう、外から様子を伺う。
ユイリの目に映ったのは、予想だにしなかった光景だった。
「きゃあ……っ」
悲鳴が聞こえた。
座り込んだ女性の前に、大きな影が立ちふさがっている。
歪んだ角と六つの目、それから鋭い歯が並んだ大きな口を持つ、化け物だ。
全身が靄のような黒いエネルギーでできているように見える。
「ごめんね、マリさん。君はこれから、食われて死ぬ」
男性だったものは涎を垂らしながら、一歩ずつ女性に近づいていく。
「妖怪!? 化け物!? 先生、どうしましょう!」
助手は慌てた様子で、しかし小声で聞いた。
ユイリは、即座に答えた。
「車に戻って、音織リーネに『化け物が出た』と連絡を。後はこちらに任せてほしい」
そして、助手の視界から一瞬にして消える。
「は、はい……?」
助手は状況が掴めていなかったが、指示通り路地を走り、戻っていった。
~~~
編ヶ瀬ユイリは、廃ビルの割れた窓から中に入る。
人が入れる大きさの穴ではなかったが、霧になって通り抜けたので問題はなかった。
そして、化け物の背後で人型に戻る。
ユイリもまた、人間ではないのだ。
「お取込み中失礼します」
化け物はびくっとした後、振り返った。
その隙に、女性が逃げ出す。
足音に気付いた化け物が、再度そちらを向く。
「あ、俺の獲物!」
化け物が鉤爪を伸ばしたが、高速移動をしたユイリがすんでのところで受け止める。
女性は正面の入り口から駆けて行った。
「君、なぜ邪魔をするんだ!」
化け物は苛立った様子で手を振り払う。
「殺人は犯罪です。少なくともこの社会では」
ユイリは六つの目を見据えて言った。
「そんなこと、どうだっていい! 俺は腹が減ってるんだ」
化け物はユイリの胴体を掴む。
しかし、すぐにその姿は霧散してしまった。
化け物は、ユイリが何者かを理解する。
「あなたは、人間しか食べられないのですか?」
ユイリはまたしても背後から質問を投げかける。
「いいや。だが、人間が一番美味い」
化け物は目を光らせ、光線を放つ。
ユイリは背に翼を生やし、飛んで回避した。
「なぜ、こんなリスクを冒してまで人間を……」
しかし、その翼を掴まれてしまった。
鉤爪が刺さり、少し痛い。
「君は、吸血鬼だろ? なら、俺の気持ちが分かるはずだ」
吸血鬼は主に人間の血を糧に生きる化け物――人外だ。
家畜などの血でも生きてはいけるのだが、正直物足りない。
人外の一部は、人間を脅かすことで快楽を得るしくみを持っていた。
「確かに、人間の血液はとても美味しいと感じます」
宙に浮いたまま、ユイリは話す。
「しかし、私たちは社会を間借りしている立場。彼らの数が減ってしまったら、困るのは私たちでしょう」
言い終わると、化け物の手に触れる。
ビリッと雷の魔術が放たれ、化け物はユイリを手放した。
「そんな勝手な言い分で、俺の邪魔をしないでもらえるかな」
化け物はちっとも効いていない様子で、腕を振りかぶった。
ユイリは足先を掠めるほどギリギリで飛んで回避する。
「勝手でも構いません。とにかく、禁忌を犯したことはご理解ください」
語りかけながら、小さなコウモリに化ける。
大きな体では狙いづらい標的だ。
何度もパンチと光線が飛んでくるが、なんとか回避し続ける。
ここで足止めさえすれば、解決すると知っていたから。
「警察に言うつもりなのかい? 俺が人外だって。誰も信じやしないよ」
化け物は攻撃を続けながら、見下すように言う。
「ええ、人外を逮捕したところで、法では裁けません。ですので、代わりを呼びました」
ユイリが言い終わると、複数人の駆ける足音が聞こえ始める。
『協会』と呼ばれる組織の、戦闘エージェントたちのものだ。
音織リーネから連絡が行ったらしい。
「くっ」
化け物は壁を破壊した。
そちらから逃げだしていく。
化け物は路地裏の障害物を腕でなぎ倒しながら走って行く。
ユイリは化け物を追いかけながら、足止めの手段を考えた。
一瞬でも時間を稼げれば、彼らがなんとかしてくれる。
たった一瞬でも――。
ユイリは道の先に、あるものを見つけた。
それ目掛けて思い切り雷を放つ。
それ――古びた鉄柵は通電し、触れなくなる。
化け物の手が止まり、迷いが生じた。
すぐに光線で破壊するも、時すでに遅し。
化け物の前後を、揃いの服を着たエージェントたちが取り囲んだ。
~~~
「お手柄だったわね」
ユイリの友人である音織リーネがそう言って、紅茶を飲む。
「ただ運が良かっただけさ。それに結局、彼を捕まえたのは私じゃない」
ユイリは苦笑いしている。
あの後、ユイリのときの比ではない盛大な戦闘があり、ようやく化け物は確保されていった。
『協会』は人外たちで構成された組織で、ときにこうして警察のような役割を担うことがある。
秘密裏に身柄を引き渡すほど、人間社会とも繋がっているそうだ。
「でも、ユイちゃんが止めなかったら被害者が増えているところだったのよ」
この一見すると高校生にしか見えない少女、音織リーネはそのトップといったところ。
長い時を生きたユイリよりも年上の、人外だ。
二人は古くからの友人で、今日はお茶会をしている。
あの事件の顛末を話すには、ぴったりの日だった。
「まあ、ね。彼女を怪我なく逃がせたのは良かったかな」
ユイリはお茶菓子のスコーンをつまむ。
あの路地裏で待ち合わせていたマリという女性は一般の人間で、あの化け物の男性と一夜を過ごす約束をしていたそうだ。
逃げ出した後は助手に声を掛けられ、ともに車の付近で待っていたらしい。
「そうよ。とってもいいことをしたわ」
リーネはふわふわとした笑顔を浮かべている。
「ああ、そうそう。助手君にはこちらから説明しておいたよ。リネが警察関係者だってね」
助手もまた人間なので、すべてを明かすわけにはいかなかった。
リーネの正体や、事件の謎はほとんど誤魔化している。
あの化け物はトリックを使った見せかけのもので、それを利用した殺人が起こるところだったのだと説明した。
混乱していた助手は、そんな説明でも受け入れることしかできなかったらしい。
「そして、依頼者にも無事報告を書いたところさ」
事の発端である身辺調査の依頼者には、『恋人は隠れて不特定の人物と会っていたようだった』と報告した。
嘘ではない。
会った後に浮気ではなく食事を試みていたというだけで。
「人外の存在を隠すのは大変だね。勝手に暴れるものだから、仕事も多くて大変だろう」
ユイリはやれやれといった表情。
「そうねぇ。皆が協力して隠せれば、『協会』の業務もうんと減るのだけれど」
リーネは頬に手を当てた。
「人外は気ままで、統率が取れないからなぁ」
ユイリは紅茶を一口飲むと、続ける。
「これからも、よろしく頼むよ。人間社会を人外から守ってくれ」
「もちろんよ。ユイちゃんの大好きな、この社会を守るわ」
人外たちのお茶会は、しばらく続いた。
終